霊の世界の構造        ・・・・・・  虚構の世界から脱却し、真理を知る

                                                2017年 6/5

    1. 本当の 霊界の構造 ・・・・ 図解、 十字架・復活と再臨

    2. 超常現象から分かること ・・・・ 一般的な霊現象

    3. 死後の世界のあかし ・・・・ ニューエイジの間違い、 死人のよみがえり

    4. 霊の見分けと これから起こること  ・・・・  霊の見分けの賜物、 終末への対応



    1. 本当の 霊界の構造  ・・・・・ 聖書に基づく 天地・霊界の構造



  旧約聖書(ヘブライ語)の記述で、「天」は ハシャマイム(The heavens、男性・複数)であり、複数の階層の天界が存在することをあらわし、 一方 「地」は ハアレツ(The earth、女性・単数)であり、この一つの地上をあらわす 単数です。 パウロも、「第3の天」(Ⅱコリント12:2) =「パラダイス」(Ⅱコリント12:4)へと引き上げられた体験をあかしし、天界が複数ある事を表現しています。
  ユダヤ教では天は7階層とされていますがその聖書的根拠はなく、新約聖書のこのパウロの記述から、大きく分けて 3つと考えられます。 すなわち、第1の天: 空・宇宙空間、 第2の天: 一般的な霊界、 第3の天: 主のみもとの天・天の御国。
  天使長ミカエルによってサタンが第2の天から追い出される時(黙示12:9)まで、この「空中」(エペソ2:2)には”虚構の世界”が存在します。


  創世記1:2には、ヘブライ語から正確に訳すと、 「地は トーフー・ワ・ボーフー(≒ 混沌の状態)に なった(完了体、ハイェサー、became)」 となり 変化を表し、 このあとの創造の以前に、元の創造があったことを意味しています。 これは、サタンが全天使の3分の一を引き連れて出て行った(黙示12:4)ことにより、「自分のおるべきところを捨てた御使い」(ユダ:6、 Ⅱペテロ2:4)のゆえに天・地は支えを失って崩れた、と考えられます。
  したがって、創世記1:3以降は すべて再創造の記述です。(この中に御使いの創造の記述はない) 創造する の バーラー(בָּרָא)は、無から有、有から有の両方の意味があります。 ( → 1) ギャップ説



  




  また、ヘブライ語の 「シェオルשְׁאוֹל)」(ホセア13:14、イザヤ14:9 等)は、広義の 「よみ」であり、その中に 「パラダイス(παραδεισος)」(ルカ23:43) と 「ハデス(αδης)」(ルカ16:23) が分かれて存在しています。 その間には 行き来できない大きな淵(ギャップ、湾)があります。

   ・ パラダイス ・・・・ 主に贖われた人が、死後 一時的にいる場所。 (= 旧約時代の「アブラハムのふところ」(ルカ16:23)。 現在は キリストの十字架によって天が開かれているので、死んで召されたクリスチャンの霊は 直接、主の みもとに行くようになった。一説にはこちらをパラダイスと呼ぶ。) 殉教者たちの霊は 祭壇の下にいる。(黙示6:9)
   ・ ハデス  ・・・・・ この地上の生涯の間に 信じないで、救われなかった人の霊が、死後から最後の審判の時までの間 いる 獄。 多くの場合、生前の罪に応じて ハデスの堕落天使(獄吏)によって拷問を受ける。

  この 人が行くハデスのほかに、 「タータラス」(創世記6の堕落天使が閉じ込められている所、Ⅱペテ2:4、ユダ:6)、 「アビス」(=「底知れぬ所」、「アバドン(破壊者)」、ルカ8:31、黙示9:11、11:7)、 も 「よみ=シェオル」に含まれています。

  cf. 「ゲヘナ」(ヨシュア15:8 גֵּי בֶן-הִנֹּם ゲイ・ベン・ヒノム(ヒノム(”悲嘆”)の(子の)谷)、 マタイ5:29、30 γεεννα ゲーエンナ) = 「火と硫黄との池」(黙示20:10)は、これらとは本質的に別で、 最後に必要なくなったものを焼却する 霊的な最終処理場です。 元々ゲヘナは御使いが堕落した時、彼らを処分するために造られました。(堕落天使=悪霊ども は、本質的に真理の無い者たちで、決して悔い改めることはしない。) 「死」も「ハデス」も 最終的にはこの火の池(第二の死)に投げ込まれます。(黙示20:14)





  御子イエス様は、十字架死後使徒信条が「よみにくだり」と表現しているのは、「三日三晩、地の中心((直訳)カルディア=心臓)」(マタイ12:40)に行かれ、 ① パラダイスにいる聖徒たちに福音を宣べ伝えられ(ルカ23:43)、 また一方、② ノアの洪水の時に信じなかった人々の霊にさばきを宣言されたこと(Ⅰペテロ4:19、20)の、両方を言っています。 パラダイスとハデスの間には、超えることのできない大きな淵があり、イエス様はその両方に語られます。イエス様は、生と死をさばくお方です。(ルカ16:26)

  (注1) イエス様は、一度、十字架上で御父と分離され、贖いを成し遂げられた後、同じ十字架上で死の直前に 御父との関係が回復し(ルカ23:46)、一人の神に戻られた。そして死後、神の子として、霊たちに福音とさばきを宣言された。 したがって、全く行く必要のないゲヘナに行かれたのではありません。 (・ 十字架の死後、ゲヘナまで下られ、そこでサタンの性質を帯びられた、という異端は論外(ケネス・コープランド異端、 ケネス・ヘーゲンも見分け×))
  (注2) Ⅰペテロ4:6の 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」は、しばしば”セカンドチャンス論”の根拠とされますが、 これは前節(4:4、:5)との関係から、 (今生きている人々の中で)霊的に死んだような人々さえも、罪の肉体は滅びても (恵みによって)霊だけは救われる、ということを言っています。(=Ⅰコリント3:15、「霊は火の中をくぐるようにして助かる」)



  また、御子イエス様再臨の時、 旧約・新約の両時代の全歴史を通じて救われた人々の霊を引き連れて、世の終わりの時にこの地上に空中から再臨されます。(ユダ:14) この時、「号令(=黙10:2、a shout*)と、御使いのかしらの声(=黙14:15*)と、神のラッパの響きのうちに(=黙10:7、第7のラッパ*)、・・・キリストにある死者がまず初めによみがえり、」(Ⅰテサロニケ4:16)、 「それから、生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ」(4:17)、 このようにして 「最後のラッパ(*(直訳)the last trumpet、=第7のラッパ)とともに、一瞬のうちに朽ちない体に変えられる」、という「奥義」が成就します。(Ⅰコリント15:51、52)

    ・・・・ * 黙示録の記述とまったく一致している! 空中携挙は、主の再臨の時 一回だけで、”艱難期 前 携挙” はあり得ない。 後3年半後、イスラエル、異邦 同時。( + ただしその後、7つの鉢の時に「落穂拾い」もある。)

   「この天(単数)と地(単数)は過ぎ去ります。 しかし、わたし(主)のことばは決して過ぎ去るということはありません。」(マタイ24:35)  ・・・ これらの、主が語られた(世の終わりの)すべてのことが必ず起こる、という意味。


  ・ ヘンリー・グルーバー師が 死海の近くの マサダの下にある「ソドム」の遺跡に行った時(その場所は、ものすごく霊的に悪かった)、『金の塩』(金が高温で蒸発して 塩や砂の中に分散したもの)をイスラエルの大学に分析してもらったそうです。 金は沸点2856℃で、ソドムの寺院やスフィンクス等はそれ以上の高温に晒され、表面の金が一度すべて蒸発してしまったことを表しています。 噴火や隕石などの自然的な破壊現象ではなく(構造物の概形が残っている)、が硫黄と塩を降らせ、超自然的に非常に高温に加熱し、のさばきが静かに かつ徹底して行われたということ。 聖会メッセージ 上のほう)


  艱難期が過ぎて、さらに「千年王国」が終わると、万物の終わりの時が来て、救われなかった人々の霊は、「大きな白い御座」(黙示20:11)のの御前に出され、生前の行いに応じてさばきを言い渡され、ゲヘナに投げ込まれます。(黙示20:15)


     (参考) 死者、堕落天使の行く所(広義のハデス) (by.ハーベストタイム)




  (追記)  * 時々ある質問で、神様の(特に旧約の神)のさばきの恐ろしさが見えすぎて、神の愛を見失う方がおられます。


  今は主のさばきが分からなくても、新しい体を着て主と共にいるようになると、その正しさが分かるようになると信じます。

   「への恐れはきよく変わらない。 のさばきはまことで、ことごとく正しい。」(詩篇19:9)


  アダムとエバからの原罪を受け継いだ人類は、「自らを神とし、良し悪しを自分で規定し」、神から離れ、おのおの自分勝手な道を行くようになりました。 その、人の底いも知れぬ罪は、神のひとり子イエス・キリストを 十字架にかけて殺さなければならなかった程のものです。 全知・全能の神様でさえも、提出できる、そのほかの妥協案は一切ありませんでした。
  これは罪人にそのまま全権を与えるとどうなるかは、世の終わりの「反キリスト」のふるまいを見ればわかります。(サタンも 元は天使長で、その影響がいかに甚大だったかが分かります。(創世記1:2等))

  しかし、本来滅びるように定められた我々は、御子によって「救い」を得た、ということにもっと注意を向けるべきでしょう。 これこそ「恵み(カリス、grace)」です。それも圧倒的な、大いなる恵みです。
  原罪の方向とは逆に、クリスチャンが成長するほど、主に より頼むようになります。 「天の御国」とは、主が共におられることです。



   「全き愛(=キリストの愛)は 恐れ(=神のさばきへの恐れ)を締め出す。」(Ⅰヨハネ4:18)

   「神は、そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された。 それは、御子を信じる者が 誰一人滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)






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